logo
© harumaki
Copyright All Rights Reserved.
  

第四十九章;輪郭の剥げたワンシーン


 記憶の淵に埋もれたあの週末を憶い出す。或いは霧から垣間見える見慣れない色をした風景を。空港からスーツケース一つでやって来た彼女は、黒い目と艶やかな髪をした物静かな人だった。仮想から抜け出した非日常感を僕等は二時間という限られた時間で拭い去ろうと懸命だった。「日本は八ヶ月振りなんだけど、たいして寒くないね。安心した。」風に泳ぐ髪を何度か押さえつつ、彼女は僕を見上げた。黒く澄んだその目を僕は殆ど正視出来なかった。それでも薄手のセーターを纏い、コートを持っていないと云った背中が寒そうだったので、黙って自分のマフラーを彼女の首に捲いた。自分以外の誰一人として、彼女がここに居るという事を知らないという状況(その家族も友人もだ)が僕を混乱させ、そして奇妙な気持ちにさせた。自分に出来る事は何だろう?そのシンプルな問いかけを繰り返し思った。新宿の路上で、携帯電話の電源を切った。せめて、今はこの状況に対峙しなければならない、そう思ったのだ。

 やがて、歩き回った挙げ句、僕等は無名の部屋に辿り着く。空っぽの冷蔵庫や、やけに小さい流し台やポットが“定位置”に並べられていた。「此処で暫く暮らす事になると思う」彼女は戸棚から取り出した紅茶を煎れ、カップに注いだ。次第に薄紫に染まる部屋で、彼女は吐く様に喋り続けた。中国磁器の事、アントワープ出身のクラスメイトの事、そして彼女の住むアパートの河向こうに見える煙突の煙の事を(僕はきっとその町の名前を忘れる事が出来ないだろう。それがたとえ一生訪れる事のない遙か海の向こうの町であったとしても)。僕は目を閉じてその壮大な物語(それは彼女の生きる現実世界の記録に他ならない)に耳を傾けていた。やがて今にも泣きだしそうな弱々しい声──私、ここに来たこと後悔してないから──に目を開けると、彼女は背中を向けたまま、ガラス越しに見える鉄条網を指で辿っていた。その後ろ姿はまるで何十年も前のポートレートの様に、やけに輪郭の剥げたワンシーンとして僕の目に映った。それから翌日の昼までの事をあまり憶い出せない。朝陽に背中を背けたまま僕等は世界と接触していない場所を共有し、それから死んだ様に眠った。

>> To be continued
2style.net